昨晩フードパントリーへ寄付してくれた方と電話でお話しをさせて頂いた。
電話で直接お礼を言わせてもらう機会は限りなくゼロに近いのだけど、今回はかなり特殊であったからだ。
なんと寄付金の一部は小学生のお子さんからだと言う。小学生からすればけっして少なくはない金額である。
そんなケース余りに今までなくて、
お話ししてみたかったという私自身の興味もあった。
お母さんに連絡し、
彼に代わってもらい、お礼の気持ちを伝えて
私「なんで、寄付をしてくれようと思ったの?」
彼「いつもしているから、コンビニとか」
私「寄付をしたらどういう気持ちになるの?」
彼「嬉しいし、気持ちいい」
と、凄くシンプルな答えを聞けて、
私も嬉しい気持ちになった。
そして、頂いた寄付で赤ちゃん用のオムツを買わせてもらうね!と具体的に使用用途を伝えると凄く喜んでくれて、
更に私も嬉しくなった。
そうなんだよな、
寄付ってそうなんだよ。
こうした気持ちと気持ちの
つながりであって、関係なんだよな。
機械的に行う事もできるんだけど、
そこにはやっぱり36.℃以上の思いがあって、
私達か預かってるのは物資や寄付金なんだけど、その奥にある思いだったりするんだと、
改めて思い起こさせてくれた夜だった。
寄付を考える時、素嚢(そのう) の話しを思い出す。
蟻(あり)には2つ胃があって、
一つは自分の為の胃、
もう一つは仲間の為の食料を確保しておく為の胃なのだ。後者を素嚢(そのう)と呼ぶ。
そして構造的に素嚢(そのう)の方が口に近い前にある。
足下を這う小さな生き物から、
余りにも大きすぎる生きる術を教えてもらった記憶がある。
素嚢(そのう)を持つ蟻達は
何を考えて普段必死に餌を集めているんだろう。
と蟻の気持ちになって考えてみる。
「あいつお腹すかせてたよな」
「これ美味しそう、あいつに食べさせてあげよう」
「あいつにこれ食べさしたらどんな顔するんだろう」とかとか。
そんな蟻に
自分が○○だから不幸だ
といった考えとは無縁な気がする。
みんなの為に働いてるからである。
行動の目的が自分を超えた時、大気圏を超えていくように自分の悩みなんか元々無かったかのように焼ききれる瞬間がある。
自我への執着を手放せる瞬間。
公(おおやけ)への奉仕が、
自分と社会との見えないバランスを整えてくれる気がする。
これは複雑化した社会システムで生きる私たちにとって精神衛生上必要な気がして活動をさせてもらってる。
新しい友達ができた、私は
嬉しくてそんな事を考えてみたりする。
いつか、彼とこんな話しができる日を
夢見て。