屋上の音楽会のピアニスト仙ちゃんこと、
仙波さんが音楽を担当している清流劇場さんの今回のテーマは「andorra」アンドラ。
場所は一心寺シアター倶楽。
四天王寺さんですね〜。
清流劇場さんを
観劇するのが4回目になってくるので、
まずは情報収集からです笑
ある程度の筋書や登場人物なんかは調べてから望むようになりました笑
観劇に入ったらそんな説明とかはパンフレット以外ではなされないのでね(^◇^;)
何の説明もないままにスイスイーっと物語は展開していきますから、置いてけぼりにならない為に事前学習は観劇には必須です。
アンドーラはスイスの戯曲家、マックス フリッシュによって1961年に描かれた戯曲です。
筋書を簡単に
主人公アンドリは、自分がユダヤ人ということだけで周囲から執拗に差別を受ける。
しかし真実は
アンドラ人の養子として育てられたアンドリはアンドラ人の父と黒の国との女性(ナイスドイツをイメージさせる)の間の子供だった。
ユダヤ人への偏見が生む差別に立ち向かっていく、アンドリとその家族であったが、最終的には差別を受け入れて無気力となっていく。アンドリはついに‥‥
【以下感想】
うーん、これはベビーだわ。
誰も救われないなぁ(^◇^;)
数日間、絡まった観劇後イメージの糸を解く為に、色々考えて、視点という手掛かりを模索しました。なかなか時間かかりました。
ここから、口調変わりますがお気になさらずm(._.)m
この戯曲の重大なテーマとして、
『汝、偶像を作ることなかれ』が挙げられる。
本来であればモーセ十戒にその言葉は書かれており、偶像崇拝する事や他の神に救いを求める事を禁じている。(キリスト教、ユダヤ教で微妙にニュアンスの違いはあるようです)
しかし、ここで書かれている『偶像を作る』とは、
相手に対するイメージを自分の中に勝手に持ち、それに基づき相手に接する行為だと定義される。『ステレオタイプ』であったり『思い込み』『投影』といった言葉で使い分けられているようなイメージ。
この戯曲における偶像を数点か上げることで
話として分かりやすくなる。
まず、
偶像1
●アンドリがユダヤ人ということ。
(本当はユダヤ人ではない)
●ユダヤ人であることは、お金に汚く、小心者だという。
●ユダヤ人であるアンドリはお金に汚く、小心者なんだという論理。
これが人々が勝手にもっている偶像であり、アンドリに対して向けられる人々の反応である。
偶像2
アンドラの人々は世界一幸せな国であり、自由であり、愛されている国であるという人々の自負。
これは自身の所属するコミニティーへの過大的評価であると捉えられる。
その『最高に愛されて自由で愛される国』の中で行われるアンドリに対する仕打ちは酷いのですごく皮肉に満ちたセリフの様に感じた。
フェリッシのスイスに対する皮肉なんだろうか。
アンドラの人々が愛国心に満ちているが故に、異質を除去しようとする力が高まっていく構成である。
他に、
アンドリ人と黒い国との間に子供を作ってはいけない。
(なのでユダヤ人の子供を連れて帰る作り話が生まれる)
などがあるが、
それぞれの中に偶像を作ることによって
すれ違っていく人々の中の意識そのものがandorraという物語なのだ。
偶像を作ることによって、 具体的に言えば
主人公アンドリは
好きな人と結婚ができず、
したい仕事からも外されて、
実の母を人々に殺され、
最終的に自死を選ぶ。
そして愛する人の精神は崩壊して終わる。
_| ̄|○スクイヨウガナイ‥‥
話はヒロインが
父親の家の壁を白く塗るシーンから始まり、そのシーンで終わる。
壁を白く塗るというのは、薄汚い真実を、美しい偶像を作ることの暗喩であるとすれば
ここまで人(アンドリ)が傷つき、
人(アンドリの母)が死んだとしても
それでも尚、人は心の中で偶像を作ることをやめられず、
自分達を守る為に壁を白く塗る(偶像を作る)というフェリッシ自身の諦(あきら)めのような終わり方なのかもしれない。
偶像を作ることは愛との対極にある。
この事をフェリッシはandorraを通して伝えたかったメッセージのような気がする。
愛とは無条件なものだということが、偶像との対極であるのならば、確かに理解しやすい。
アンドリが、ユダヤ人であろうがなんであろうが、受入れようとする心はまさに愛である。
ヒロインの心だけが、偶像を作らずにアンドリを受け入れようとした事はandorraの舞台における数少ない救いの要素である。
過去の観劇の記事
と今回は4度目の清流劇場さんでした★