長めの読書録。
詩集が映画化されるという、
言葉フェチの間では騒つく話題があったので、気になってた最果(さいはて)さんの本を手にして3冊目にやっと本作にたどり着いた。
年齢も近く、神戸生まれの
その人に少し親近感を覚えた。
縦書きと横書きで綴られる、誌の数々は、
日常の中にある言葉なのだけれど、
趣きも響きも真新しく感じる。
それが詩人の力というか詩のフィルターなのだと思う。
相手に語りかけてるようで、
自分に諭すように、
概念をバラバラにするように、
繋がれていく言葉の振る舞いの世界に
読むというより、佇む。
そんな自分の意識に気付く。
詩は連続する言葉を読む行為でなく、
その言葉に連動して
自分の心の小部屋を作って、
そこに自分を置くことかもしれない。
誰も入れない小部屋。
誰かが入ってくる事で、壊れる小部屋。
日常では
aがbなので、cだよね。
っていう論理に使われる言葉の側面もあるが
詩の世界は、論理というより、
言葉の動的な振る舞いを愉しむ方が、
もう一度、言葉というものに対して、
ちゃんと向き合える気がする。
言葉に向き合うことは、きっと自分に
向き合うことに通じると思う。